健常者になれなかった者たち

4人のガイジたちが送るドタバタガイジストーリー

鬼滅の刃が嫌い過ぎる話

はじめに断っておくが、ここで書くことは、鬼滅の刃という作品そのものへの批判ではない。

 

そもそも私は鬼滅の刃は見ていないし、ストーリーも登場人物も全く知らない。まあ、名前からして鬼を殺すための刀が出てくることぐらいは予想がつくが。

 

鬼滅の刃という作品自体ではなく、むしろ、鬼滅の刃というコンテンツ自体に一石を投じるべく、会社説明会の帰りの電車の中でこの記事を書いている。

 

結論から言ってしまうと、私が1番言いたいのは、鬼滅の刃というコンテンツが広まるにつれて、「オタク」という用語がの意味が歪曲して広まっていることに対する懸念である。

つまり、鬼滅の刃が流行ったせいで、オタクという言葉自体が間違った使われ方をしているということだ。

具体的にどういうことなのか。順を追って説明したい。

 

[1]「オタク」の本来の定義

そもそもの定義として、「オタク」とは何を意味する単語なのだろうか。Wikipediaには以下のように定義されている。

 

>>元来はアニメ・ゲーム・漫画などの、なかでも嗜好性の強い趣味や玩具の愛好者の一部が二人称として「お宅」と呼び合っていたことを揶揄する意味から派生した術語で、バブル景気期に一般的に知られはじめた。

 

>>辞書的には、ある趣味・事物には深い関心をもつが、他分野の知識や社会性に欠けている人物として説明される。

 

>>おたくという語はしばしば漫画やアニメーション、ゲームなどと強く結び付けられ理解される傾向にあるが、鉄道マニアやカメラマニア、SFファンや電子工作ファン、アイドルおたくやオーディオファン、あるいは勉強しか取り柄のない「ガリ勉」などまでイメージさせる語であった。

 

このように、本来「オタク」とは、社会性や他分野の知識が著しく欠如している一方で、自分の嗜好に関しては人一倍の知識を持っていることが前提となってくる。

 

例えば、「アニメオタク」ならば、アニメに関する知識は人一倍持っており、登場人物の名前から世界観、独自のストーリー考察、さらには登場人物に声を当てている声優の名前まで一気にまくし立てることができる一方、アニメ以外の知識は皆無であり、それ故、お母さんが買ってきた服を着、髭も剃らず、ボサボサの頭で外出し、さらには社会性も無いためにアニメと全く関係のない場面でもアニメの話をまくし立てると言った側面も見られる(もちろん個人差もあろうが)。これが、「オタク」がキモいと言われる所以であると考えられる。

 

では、鬼滅の刃の広まりにつれ、このオタクの定義はどう崩れたのか。それを説明するには、現在多くの場面で使われている「オタク」の意味を解釈する必要がある。

 

[2]現代の「オタク」の定義

現在、「オタク」という語は、アニメや漫画などのサブカルチャーが好きな人全般を指している風潮がある。

先程引用したWikipediaの記事では、辞書的な意味での「オタク」を定義する一方、このようにも書かれている。

 

>>現在はより広い領域のファンを包括しており、その実態は一様ではない。

 

>>おたくは広い意味をもつ言葉となったため、おたくとその文化を再定義する試みはたびたび行われてきた。評論家の岡田斗司夫はおたく文化を創作作品の職人芸を楽しむ文化としてとらえていた。精神科医斎藤環セクシュアリティおたくの本質であり、二次元コンプレックスを持つのがおたくだとした。哲学者の東浩紀サブカルチャーとの結び付きを重視した。

 

このように、元来の「キモいオタク」のイメージは近年崩れ、複数の説に定義付けられることで、専門家の間でも「オタク」の定義は積極的に議論される傾向にある。

 

では、このように「オタク」の定義が広くなっていった背景には何があるのか。ここに、冒頭で述べた「鬼滅の刃」が関わってくる。

 

[3]「オタク」と鬼滅の刃の関係

 

そもそも、鬼滅の刃という作品が、何故「オタク」の定義に関わってくるのだろうか。

それは、鬼滅の刃の人気それ自体だろう。今や、鬼滅の刃は名前を聞いたことがない人が少ないというレベルの人気を果たしている。テレビでは芸能人がオススメアニメとして取り上げ、「鬼滅の刃は面白い!」という声がSNSでも学校でも場所を問わず見られ、先日、原作が完結した折には老若男女問わずその終結を惜しむ声が見られた。

もちろん、名作のアニメが生まれるというのは全くもって悪い話だとは思わない。むしろ、喜ばしい話である。だが、このアニメの絶大な人気と同時に、半ば崩れていた「オタク」のイメージはほぼ崩れることとなった。

鬼滅の刃の人気とともに、本来オタクしか見ない「アニメ」を、普段アニメを見ないような非オタクの方々が見たことで、アニメを見るのが好き=オタクというイメージが完全に定着してしまったのである。

つまり、オタクには必要不可欠な条件である「社会性の欠如」「他分野への知識の著しい欠如」が見られない人々が、鬼滅の刃を見たことで「オタク」を名乗るようになってしまったのである。

ここが、鬼滅の刃の人気がもたらした大きな弊害であり、私が鬼滅の刃を嫌う一番の要因なのだ。

読者諸兄の周りにも居ないだろうか。それまでアニメの話なんかしなかったのに、いざ鬼滅の刃が流行ると「オタク」を名乗り始め、さも自分が元々気持ちの悪いアニメ好きであったかのように振る舞い始める連中が。

 

繰り返しになるが、「オタク」というのは、他分野への知識の著しい欠如と社会性の欠如があって初めて名乗れるものなのであり、アニメを見たからオタクになれる訳ではない。

アニメを見るのが好きだが、社会性もあり、生きる上で必要最低限の知識も持ち合わせているという人は、「アニメが好きな人」なのだ。

この「オタク」と「アニメが好きな人」の違いが曖昧になってしまったことこそ、鬼滅の刃がもたらした弊害なのである。

 

[4]結論

この記事を通して言いたかったのは、現代のオタクという定義を見直し、アニメ(サブカルチャー)が好きな人はオタクという風潮を是正すべきであるということだ。

もちろん、こうした風潮は鬼滅の刃だけが作り上げたものではないだろう。近年、「オタク」という言葉は市民権を得ており、世間に認められつつあるのが現状だ。

だが、鬼滅の刃がそうした誤った風潮を大きく促進させたのは間違い無いし、「オタク」が世間に認められるのはあってはならないと思う。それは、元来の意味とはかけ離れているというのもあるが、「社会性も一般常識もないサブカル好きな人」(=本来のオタクの定義に則った人)の居場所が消えてしまうからである。

あくまでオタクというのはそのキモさがあって初めて成り立つのであり、サブカルが好きというのはオタクである理由にならない。

現代人は、「オタク」と「サブカルが好きな人」というのを、「社会性と常識の欠如」というラインをもって、きちんと分けて考えるべきだ。